■神貫(かみぬき)神社
○新城地区の守護神
新城はかつて『木志の村』、『神木村』とか呼ばれていて、新城にある神貫神社も『神木大明神』と呼ばれていたとされています。また、古代神木村の隼人が神木に氏神を祀り、神事を行ってきたと言われています。その領地は広大で、垂水も神木大明神の社領であったとされています。
古代より土地をめぐる争いは数多く行われてきました。神木大明神の頃も例外では無く、神木大明神が所有する社領をめぐり、延暦(えんりゃく)2(783)年、手貫(たぬき)神社との間で大きな争いがおこりました。その結果、開聞9社の援軍を得た手貫神社が勝利し、開聞からの9社は鹿児島神社を下宮に創建したとされています。
この戦いの際、柊原に陣を取り神貫神社に対抗した川畑善良坊の子孫は、柊原に定住するようになりました。毎年9月13日、川畑家より鯛と烏賊を手貫神社に奉納する習わしがあり、現在でもその風習は続いています。川畑家は現在、柊原の森山氏宅に氏神が残っており、森山家がその習わしを引き継いでいます。
万寿(まんじゅ)13(1036)年、肝付氏が弁済使となって以降、多くの支配者が新城を治めました。正(しょうおう)応元(1288)年以降は、平家の子孫とされる肥後氏が種子島から移り、垂水から新城までを支配しました。その後、戦国時代を迎え、垂水内でもたくさんの争いがおこりますが、天文(てんぶん)13(1544)年、伊地知重武(しげたけ)が垂水を治めることに成功し、新城も伊地知氏の支配下となります。しかし、その息子伊地知重興(しげおき)は永禄4(1561)年、祢寝(ねじめ)氏や肝付氏と組んで島津氏に叛(そむ)きます。数々の激戦を戦い抜きましたが、天正(てんしょう)2(1574)年、島津に降伏しました。江戸時代は垂水島津家が垂水を治め、新城には新城島津家が創設されました。
神貫神社は、このように新城を治めた領主の守護神として保護され、江戸時代には新城島津氏の保護を受け、村人からも崇拝されてきました。
○愛される神社
境内には太平洋戦争等の慰霊碑が移設されており、また楠・桜等の古木が生い茂り、まさに鎮守の杜の風格があります。月2回の清掃ボランティアも地区順番で行っています。六月灯では、小学生が押絵した提灯が、向拝殿から長い石段を伝って、鉄道公園までの道を照らしています。その他秋の大祭(秋季例祭・豊年祭・戦没者慰霊祭)及び元旦祭・七草祭りが行われ、年越しには神貫太鼓が趣向を添えています。まさに地区民から愛されている神社です。